お化けが怖いなんて

3月10日、病院から面会制限なしの報を受け弾丸で帰郷。

3月11日の午前3時ごろ、父が亡くなった。

「正直なところ全く父が死ぬとは思えない」と、帰りの移動中に投稿したのだが、たどり着いたICUで父を見た瞬間に「ああ、お父さんは闘い終えたのだ」とわからされた。ほんの数日前に会いに来た時は、まだ顔や体に力が宿っており、生きるために病と闘っているのだと感じたし、どれだけ医者から「助からない」と言われても、本気で奇跡を信じていた。だけど、その日の父は血圧が下がった影響か、ひどい黄疸でまっ黄色だった顔が暗い茶色のようになっており、顔も手ももう冷たくなっていた。とてもじゃないがもう「がんばれ」とは言えない。

「お父さん、ありがとう」

「お疲れ様」

「ずっとそばにおるよ、大丈夫よ」

それくらいしか言いようがなかった。

15時ごろの到着から、正味12時間ほど。母と共に実質『父の旅立ち待ちをする』という時間はなんとも妙だった。0時越えた時は疲れ果てて「いったん帰りてぇ…!」とずっと思っていた。でも実家から病院まで車で飛ばして40分。往復80分。嫌な予感しかしない。こんなに遠い病院を選んだ両親を心で呪う。そんなこんな頭でぐちゃぐちゃ考えていたら、いつの間にか控室のソファで熟睡していたらしい。隣では母も寝ていた。看護師のノックで二人とも目が覚め「もうほとんど脈がない」という報告を受ける。(ペースメーカーが入っていたので、脈が完全に止まることはない) 行こうか、と母に言うと「お母さんトイレ行ってから行く」とのこと。

仕方ないので一人でICUに入ると、主治医が待ち構えていたかのように死亡確認の準備を始めた。もう死んでんのかい。いや、それなら看護師さんもっと早く教えてくれない?ほんでお父さんもよりによって二人とも寝てる時に逝くんかい。いや主治医よ、まだ母が来てないから、死亡確認待って、そんな急ぐなって…まったくどいつもこいつも!となんだか憤る。

そこからは、眠い目をこすりながら葬儀社をリサーチ、数社見積もり、依頼、一緒に見届けてくれた叔父を駅まで車で送り、あちこちに電話をし、葬儀社と父と共に帰宅、通夜葬儀打ち合わせ、母と自分のご飯の用意、目まぐるしい一日を終え、夜ようやく、父とお酒を交わした。父が誇らしげに教えてくれた山口の地酒「東洋美人」をたらふく飲みながら話した。抱きしめてみると、冷たい体でもなんだか懐かしい感じがした。体の近くにまだ、魂がいるような気がしたし、父の部屋に父がいるということを感じた。

やっと帰れたねぇ、お父さん。長い二ヶ月だったねぇ。

翌日の通夜、翌々日の葬儀と、想像以上に多くの方が弔問してくれた。昔うちによく遊びに来ていた父の友人が、「大ちゃん?!大ちゃんよね!すぐわかったよ!」と声をかけてくれて、「ちょっと、大ちゃん、この式場の広さで大丈夫?席足りないよ!」と言われた。実際に、立ち見が出るほどの賑わいで、多くの人が僕に「お父さんには本当にお世話になって…」「お父さんのおかげで今の自分があって…」などと、泣き崩れんばかりに謝辞を述べてくれ、その度にハグでもしたくなった。世のため人のために誠実謙虚に尽くしてきた、とは父のような人に贈る言葉なのだろうと思う。父の凄さは知っているつもりだったが、こうして実際に父を好いている人たちと話すのは格別に誇らしかった。

火葬を終え、父の骨と共に帰宅。骨は腹元に抱えているが、父の気配はもう感じなかった。魂はどっかいいところに召されたのだろうか。欲を言うならもう少しでいいから、ウチを浮遊していて欲しいのだけど。お化けでいいから、出てきてくれないかな。骨壷の前に父が好きだった酒、ジムビームを供えた。酒好きな父があまりに幸せそうに飲むので、どんなもんかと味見するとなかなかクセの強いウイスキーで、

「なんでお父さんこんなの飲んでるん!もっと美味しいお酒いっぱいあるやん!」

と(全世界のジムビームファンを敵に回すようなことを)言ったところ、苦笑いしながら答えてくれた。

「若い頃アメリカ留学でよく飲ませてもらったバーボンの味に似てるんよね、この無骨な味が。これを飲む度に、アメリカの景色が目に浮かぶんよ」

お金がないわけではないのに、安いお酒を延々と飲んでいた。

欲もこだわりも少ないけれど、お気に入りは人一倍あった。

母と犬とこの家で暮らす日常は、さぞや幸せだっただろうと思いを巡らす。

お父さんがいなくて家族は大変よ。

お化けでいいから、出てきてくれないかな?

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