"自分を信じているに決まっている"

秀逸なメロディーワーク、インテリジェンスなコード進行、おしゃれで今風なリズムを組み込み、独創的でドラマチックなオケを作り、気の利いた歌詞を書き・・・
と、気がつけばいつも「優れた作品」を作ろうとしてしまう日々だった。
正確には「誰よりも優れた作品を作ろうとして、全然思うようにはいかず、自分の能力や才能の低さにいつもどこか卑屈な日々」だった。

今はこんな言葉が頭の中にある。

『「優れた作品」より「素晴らしい作品」を』。

優れたものはこの世界にいくらでもあって、そこから学ぶものは数多い。
だけど、自分が音楽に突き動かされるのは、優れたものを見てきたからじゃない。
理屈じゃなく素晴らしいものに心を撃ち抜かれてきたからだ。

無論、素晴らしい作品は優れた要素を多分に含んでいるが、優秀さだけを傑出させたから素晴らしいわけではない。
何もかもが平凡だとしても、そこに込められたストーリーや熱が、人の心を変えることがある。
やはり最後は「その人その人が、感動できるかどうか」であり、それを突き詰めれば「このオレが、感動できるかどうか」なのだ。

今年は、公私共にAIを存分に活用した年だった。
多くの人がそうだったのではないかと体感している。
その優秀さに舌を巻き、現代技術の粋に感嘆し、可能性に胸を躍らせた。
そんな2025年の結論としては、
AIが創り出すもので感動できたことは一度もなく、人間の生み出す「熱」や「苦悩」「感情を動かす何か」はAIには生み出せないと確信した。
AIアートという究極のデジタルに身を投じるほど、アコギ抱えて歌うという究極のアナログに可能性を感じ、その果ての思考が『「優れた作品」より「素晴らしい作品」を』だ。

優れた作品は今後AIが無限に作り出すことだろう。
だからこそ人間である自分にできることは「このオレが、感動できるかどうか」をどれだけ強く柔らかく、信じ抜けるかだ。
いや、敢えて言うならそんなことは朝飯前かもしれない。
いい歳して音楽やってるようなバカは、どう足掻こうと自分を信じているに決まっているのだから。

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